Disabled in STEMM

リチャード・マンキン博士インタビュー 字幕テキスト

あなたの障害についてお話しください

マンキン博士:私は生まれつき脚と腕のかなりの筋肉が欠損していて、それが運動機能の障害となっていました。そこで歩けるようになるために複数回の手術を受けることになり、12歳の頃にはすべての手術が終わって、以来杖と補助具をつければ歩けるようになりました。このことは私の人生の、主に社交的な側面に影響を及ぼしていますが、教育を受けたり、科学に触れたりする面ではさほど影響はありませんでした。私は生まれつき科学に興味があり、人生を通してずっと研究することに関心を持ち続け、幸いにも今もそれを続けています。

物理学から昆虫学へ

マンキン博士:私は科学を追究する際の手段として物理学に強い関心を持っていましたが、同時に生物学にも幅広い関心を抱いていました。そして自分の移動障害もあって、幼い頃から身の回りの飛ぶ生き物、特に飛ぶ昆虫に関心を持っていました。物理学の大学院に進んで、生物学に関連する研究プロジェクトがたくさんあることを知り、そこから次第に昆虫学に惹かれて行きました。もともと農業に関心があり、人類にとって十分な食糧を確保できることが大事だと思っていました。農業問題に物理学を応用して解決するというのは、自分にとってもなかなかいい選択だったと思います。私は昆虫学に物理学を応用することを本当に楽しんでいます。私がここ20年あまり取り組んでいる研究は、見えない昆虫の食害を探知することです。木や土の中、倉庫の保管作物の中に隠れている虫たちを、振動や音響の検知器を使って見つけ出すのです。信号を解析するのがちょっと難しいのですが、私が開発したコンピューター解析と理論分析の方法を使えば、簡単に信号の解析ができます。それは科学の中で、決して大きくはありませんが、一つの独立した領域となっています。おかげで私は世界中をめぐって、実験をし、多くの親切な人々と出会い、多くの優秀な学生たちと長年にわたって一緒に仕事をすることができているのです。

あなたの障害が研究に支障を来したことはありますか?

マンキン博士:多少はあります。実際に昆虫が生息しているところまで行ったほうがいい研究もありますから。私のいないところで他の人が集めた録音などに頼って研究するよりもね。そのために私がこれまでやってきたのは、研究協力者として、フィールドワークをやる昆虫学者の中で、私と一緒に仕事をしてもいいという人を見つけて、研究に必要な信号を集められる体制を作ることでした。それはとても興味深いプロセスでした。科学者たちはとても機知に富んでいます。そもそもそれがなければ、科学者にはなれませんからね。私たちはいろいろなことをできるように工夫を凝らして、実際私が数段の段差を上って1キロか2キロ歩くことさえできれば、かなりのことがこなせるようになったんです。最近は歳も取って、以前ほど自由にはなりませんが、それでも今も野外調査をこなせる体力は残っています。

科学者を目指す中でどんな困難がありましたか?

マンキン博士:私の障害は目に見えるものなので、まずは科学の道に進むことへの後押しが得られませんでした。結局自分の意志で決めましたが、そうしてよかったと思っています。振り返ってみれば他に選択肢はなかったんです。なぜなら私には強い好奇心がありました。そしてそれなりの頭もあって、決して世界一優秀な人間ではありませんが、学校ではいい成績をとることもできました。科学者になりたいと思ったら、やはり学校でいい成績を修めないといけないですからね。それで誰からの後押しもありませんでしたが、この道を進み続けることができたんです。幸いにも、高校時代に全米育英奨学金テストを受けて、日本にも似たようなものがあると思いますが、それでいい成績を修めたおかげで、学費免除と給付金を受けることができました。また学部時代はニューメキシコ州立大学で科学に関連するラボの仕事を見つけて、そこの仕事の一環として初めてプログラミングも学びました。学部時代に早期教育を受けたことが、大学院の助手やポスドク、実際の就職にもつながっていきました。前に進むのが難しいと感じたことが何度かありましたが、そんなときになぜか2度3度の幸運な転機が訪れて、4つか5つのいいアイデアが浮かんでくるんです。前に進むための力が必要なときそういうことが起きて、何とか今もこの業界に残っているわけです。

職場ではどんな合理的配慮を受けておられますか?

マンキン博士:私が障害を持っていることで、うちの研究室スタッフだけでなく農業研究部門全体に、他の部署に比べて障害者に対する配慮があるのではないかと思います。ドアを自動ドアにしたり、トイレの個室を広めにしてより使いやすくしたり、といったことはされています。他の障害を持つ人にも便利になったはずなんですが、実際には障害を持つ人は他に3、4人しかいません。私がここに来てからの40年を振り返っても、研究者として研究室に入ってきた人はいません。(障害をもつ科学者は)アメリカにおいてもまだ一般的ではないのです。ただ、私のほうから配慮を求めたのはそうした大学の管理部門に対してではなく、一緒に働く同僚たちに対してでした。彼らと相談して、互いの利益になる仕事の仕方を考えました。彼らは私から昆虫の行動についての知識が得られ、私は彼らの手を借りて現地にたくさんの機材を運んで行ったり来たりできるようにしたんです。そのことは協力者にとって大きな問題ではないようです。もっと一緒に研究をやりたいと戻ってくる人もいるくらいですから。私と一緒に機材を使って自ら昆虫の音を聞き分けるプロセス自体を楽しんでいるみたいです。

あなたが代表を務める「科学と障害」財団について教えてください

マンキン博士:この財団は当初(1975年)たった3人の、障害をもつ優秀な科学者たちによって始められました。当時彼らが学会に参加するには様々な障害があったのです。私自身たくさんの学会に参加してわかりますが、学会では多くの同僚たちと会い、科学の世界でいま何が関心を集めているのかを知ることが重要です。彼らが所属していたAAAS(アメリカ科学推進協会)からの働きかけもあって、異なる科学分野の主だった学会組織が、障害者が学会に参加しやすくなるよう努力をし始めました。その後、全米で法律が成立して、すべての障害をもつ人に対してそうした配慮が適用されるようになりましたが、それまで財団は(障害のある研究者の)大きな手助けになっていたと思います。特に移動の難しい人や視覚や聴覚に障害がある人にとってはね。

幸い財団の当初の目的は達成されたのですが、さらに1990年代から2000年代にかけて私たちが求めたのは、障害をもつ科学者や技術者たちのネットワークを作ることでした。それが長年私が力を入れてきたことです。これは決して私が得意なことではなく、というのも私のような障害を持つ者はあまり外向的ではないんです。たびたび疎外されるような経験をしてきているので、どうしても引っ込み思案になりがちです。私の妻はとても外向的だったので、彼女から他の人々とうまく付き合うためのスキルを学びました。

財団のもう一つの目的は、大学院生に奨学金を出すことで、私は奨学金委員会の委員長を20年余り務めています。これまでにおよそ25人に奨学金を出してきました。そのプログラムで奨学金を得た学生の中には尊敬される科学者になった人もいて、私はそれがこの財団の誇るべき功績だと思っています。

研究者を目指す障害学生へのアドバイスは?

マンキン博士:誰もが異なる強みを持っているので、自分の強みにフォーカスすることだと思います。私の場合は、好奇心の塊でしたし、知力もそれなりにあったので、他の人たちと科学の世界で起きていることについて話したくて仕方なかったのです。それが周りの人たちが私に対するスティグマを乗り越えるきっかけとなり、高校・大学時代には友人たちと集まって大いに議論を交わしました。多くの人と言葉を交わしただけ、あなた自身を一人の人間として見てくれる人が増えてきます。実際、私は多くの人から、私のことを障害者とは思えないと言われます。そうやって障害に対するスティグマは次第に薄れていくんですね。障害がない人と同じように接してくれる人たちと交流することです。

アドバイスになるかどうかわかりませんが、強い意志を持ち続けることですね。もし本当に科学者になりたいのであれば、どんな研究をしたいのかもわかっているのであれば、とにかくそれを追究し続けることです。その決意を知れば、誰かが少しだけドアを開いてくれて、あなたが障壁にぶつかったときでも、前に進む道を作ってくれるだろうと思います。